フェルマー、ライプニッツ、ベルヌーイ、オイラー、ラグランジェの時代

ライプニッツ誕生:1646年7月1日

  • ドイツのライプツィヒにおいてゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ誕生

フェルマの『数学著作集』(Varia opera mathematica)が刊行:1679年

微積分に関するライプニッツの論文 1684年第一論文、1686年第二論文

  • 第一論文:微分計算1684年
    「分数量にも無理量にも適用される,極大と極小および接線に対する新しい方法.な
    らびにそれらのための特殊な計算法」
  • 第二論文:積分計算1686年
    「深い場所に秘められた幾何学,および不可分量と無限の解析について
  • この論文で、近代数学史の流れの中に微分積分学という学問が現れたと言えよう
  • スイスのバーゼルでライプニッツの二論文を見たベルヌーイ兄弟(兄のヤコブと弟のヨハン。ヨハンはオイラーの師)は、協力してライプニッツの論文の研究を始めました。ライプニッツにも手紙を書き、彼とベルヌーイとの往復書簡こそ、微分積分学の基礎が始まった。

オイラー誕生:1707年4月15日

  • スイスのバーゼルにおいてレオンハルト・オイラー誕生.レオンハルトは長男.父は 新教(カルバン派)の牧師であった.バーゼルのラテン語学校を経て,1720年,14歳の ときバーゼル大学に入学した.

ライプニッツ歿:1716年11月14日

ニュートン歿:1727年3月20日

  • 結石病のため.ウェストミンスター寺院に葬られた.
  • オイラーがペテルブルグの科学アカデミーの招聘を受け,バーゼルから船でペテルブルグに向かった.

ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli, 1700年2月9日 - 1782年3月17日)

オランダのフローニンゲンに、数学者ヨハン・ベルヌーイの息子として生まれる。伯父としてやはり数学者のヤコブ・ベルヌーイがいる。ダニエルはベルヌーイ家の中では最も才能があり有望であった。そのためか彼と父との関係には緊張が絶えず、パリ大学の科学アカデミーのコンテストでは、ヨハンは自分の息子と比較されることに耐えられず、ダニエルに論文提出を禁止したという。ヨハンは、ダニエルの主著 Hidrodynamica を盗用し、Hidraulica と名を変えて発表しようとした。ダニエルの関係改善の努力もむなしく、父は死ぬまで息子を逆恨みしていた。1725年にはペテルブルク科学アカデミーに数学教授として就任するが、1733年に病気を口実に辞し後任として友人のオイラーを推薦している。同じ年バーゼル大学の植物学・物理学教授となり、その死まで医学・形而上学・自然哲学を教えた

オイラーがペテルブルグ科学アカデミーの数学教授:1733年

  • ダニエル・ベルヌーイがペテルブルグを離れ,バーゼルにもどった.ペテルブルグ科学アカデミーの数学教授職を引き継いだのはオイラーである.

オイラーの長男ヨハン・アルブレヒト誕生.1734年11月27日

ラグランジュ生れる.1736年1月25日

  • Sardinia-Piedmont (現在,イタリア) のトリノにおいてヨセフ・ルイ・ラグランジュ生 れる.

オイラー 右目の視力を失った:1738年12月20日

  • ヨハン・ベルヌーイ宛書簡の中で,オイラーが公式を報告した.
  • 「フェルマの定理とそのほかの注目すべき諸定理に関する所見」
    • ペテルブルグ帝国科学アカデミー紀要6(1732/3年)1738年,103-107頁;オイラー全集1-2,1-5頁.
    • 数論におけるオイラーの第一論文.「フェルマ数はすべて素数である」というフェルマの言明が否定された.オイラーは反例を与えた.また,フェルマの小定理とその一般化も表明された.

オイラーの公式:1742年5月8日

  • オイラーがゴールドバッハ宛の手紙の中で,公式を報告した.

オイラーの変分計算の著作:1744年

  • 『極大または極小の性質を備えた曲線を見つける方法,あるいは,もっとも広い意味合いで諒解された等周問題の解法』(ローザンヌ,ジュネーブ)が刊行された
  • このときオイラーは37歳。等周問題や最短降下線の問題を受けて、変分法という学問の確立を企図して叙述された記念碑的な論文

ライプニッツとヨハン・ベルヌーイの哲学数学書簡集の刊行:

  • 『ヨハン・ベルヌーイとの往復書簡集』が刊行された
  • ニュートン がライプニッツ批判をした『解析書簡集(Commercium Epistolicum)』(1713)に対する反論書

バーゼルにおいてヨハン・ベルヌーイ(初代のヨハン)歿.1748年1月1日

  • オイラー『無限解析入門』(全二巻)刊行 関数概念の概念規定

対数の無限多価性の発見:1751年

  • オイラー論文「負数と虚数の対数に関するライプニッツとベルヌーイの論争」
  • オイラーの論文(複素解析)「負数と虚数の対数について」.Opera Postuma 1, 1862年, 269-281頁;オイラー全集,第一系列,巻19,417-438頁.1747年9月7日,ベルリン科学アカデミーで報告されたという(ヤコビの調査による).

・ルジャンドル(Adrien-Marie Legendre)生れる1752年

オイラーのペテルブルグ帰還 後任はラグランジュ:1766-1769年

  • 夏,オイラーがベルリンを離れ,ペテルブルグにもどった.ベルリン科学アカデミー でのオイラーの後任はラグランジュ

フーリエ誕生1768年3月21日

  • 中部フランスのオーセールでジャン・バチスト・ジョゼフ・フーリエ誕生.
  • オイラーの著作(積分計算):1769年『積分計算教程』(全三巻),第一巻刊行 無限小解析のテキスト三部作の三番目

[オイラーの論文](数論)1774年

  • 「素数による冪の割り算から生じる剰余に関する諸証明」.ペテルブルグ帝国科学アカデミー新紀要18(1773年),「メモワール」,85-135頁.オイラー全集1-3,240-281頁. 「pは素数とするとき,合同式x^n=1(MOD.p)の根の個数はn を越えない」という命題と同等の定理が(別の言葉で)表明された.また,原始根の概念が現われる.
  • 2^31-1=2147483647 は素数であるというフェルマの言明の証明.
    • この当時,知られていた最大の素数である.オイラーは,この事実を初めて主張したのはフェルマであると言っている

ガウス誕生:1777年4月30日

ドイツのブラウンシュヴァイク(ブラウンシュヴァイク公国の同名の首都)においてヨハン・カール・フリードリッヒ・ガウス生れる.

  • 1777年ペテルブルグ帝国科学アカデミーで学術誌"Acta Academiae Scientiarum Imperialis Petropolitanae (ペテルブルグ帝国科学アカデミー報告)"が創刊された。毎年2巻ずつ刊行。
巻1 1777-Ⅰ,1778年 オイラーの論文11篇
巻1 1777-Ⅱ,1780年 オイラーの論文6篇
巻2 1778-Ⅰ,1780年 オイラーの論文8篇
巻2 1778-Ⅱ,1781年 オイラーの論文7篇
巻3 1779-Ⅰ,1782年 オイラーの論文8篇
巻3 1779-Ⅱ,1783年 オイラーの論文7篇
巻4 1780-Ⅰ,1783年 オイラーの論文10篇
巻4 1780-Ⅱ,1784年 オイラーの論文10篇
巻5 1781-Ⅰ,1784年 オイラーの論文6篇
巻5 1781-Ⅱ,1785年 オイラーの論文5篇
巻6 1782-Ⅰ,1786年 オイラーの論文3篇
巻6 1782-Ⅱ,1786年 オイラーの論文5篇
オイラーは多数の論文を報告

1783年オイラー没

  • 9月18日ペテルブルグにおいてオイラー歿.

1813年ラグランジュ歿

  • 4月10日朝10時ころ,.パンテオン寺院にお墓がある.

1833年ルジャンドル歿

  • 1月9日 フランスのオートゥイユにおいてルジャンドル歿.

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Last-modified: 2009-08-05 (水) 21:48:44 (5388d)